それでも 夢見ていたいよ
『筋肉蕎麦屋の初恋と密室』終演いたしました。ご来場くださいました皆様、誠にありがとうございました。
脚本演出による後語りです。
まず、改めて、桜木美礼が描いた4枚の絵を紹介させてください。
「頑健にして黄金の木」
源田モチーフで描いた絵。
「首吊り——後悔と懺悔の木」
自身の苦しみ、痛みを描いた絵。
「清廉の夢としての木」
自身の叶わぬ憧れを描いた絵。
「それでもありふれた痛みの木」
高川モチーフで描いた絵。
さて、今公演は、本当に周りの人に助けられた公演でした。
小さな小さな怠慢と慢心、《なんとかなるだろう》《今までなんとかなっているんだから大丈夫だろう》そんな気持ちはまさしく雨であって、地に埋まる黒い種を、徐々に、気付かぬうちに、おどろおどろしい樹木へと成長させていったのでした。
今公演における、多大で致命的な自省と自戒の数々は、過去の轍の上に撒かれた種であったに違いないのです。反省を次の公演に活かす——というのを、演劇の神デウスエクスマキナは赦してくれるでしょうか。主観性を脱却することはできるでしょうか。そもそも果たして脱却すべきなのでしょうか。
今作はタイトルにこそ「筋肉蕎麦屋」とありますが、これは桜木美礼の物語でした。きっと本当に、彼女のような人は世の中に満ち満ちていて、あるいは彼女以上に苦しんでいる人がいるのでしょう。フィクションとは嘘ではなく、現実のパロディなのです。登場人物達が語った思想はまさに、《現実を生きる》ということへの憂いなのです。
「誰かが、何かを変えとったら」「もう少しだけ、誰かが桜木に優しくしとったら」「何かが、何かが変わっとったら」——これは作中終盤で源田が桜木のなにかしらに語り掛けていた言葉です。現在は過去の集積であり、未来とは現在の道程にあります。そして過去に対して現在は無力です。源田や高川、海老沢が、現在桜木に何もできないように。そしてそれを観ていた人たちも、物語に干渉できないように。源田は、半分は観客と同じような立場で、一方的に知っていくだけの無力な人間です。謎を全て解いたところで、過去は何も変化しないのです。
今作は、私が本当に好きな物語になりました。私の想像以上に、あの物語は涙の源流へと昇華されたと思うのです。毎ステージ、照明操作をしながらじんわりと涙を浮かべていました。役者のみならずスタッフの力によるものに相違ありません。
そういうソフト面の満足感はそれなりにあっても、ハード面が至らないところばかりで、それが本当に悔しいです。
そんな中、つぎの物語の話を?
本当にやるとするならば、できるとするならば……。本当に何をしようかと悩んでいます。ストーリーは色々考えてはいるのです。苦しいけれど美しい話、もしくは、苦しくて醜い話。優しい私と狂った私の、どちらがより強いか次第です。
またいつか、どこかでお会いしましょう。
私の言葉を好きと言ってくれた人たちがいる限り、私は言葉を紡ぎ続けます。たとえどんな退廃的な物語でも。
(仲保)
0コメント